天安門事件

 天安門事件について。わからない人のために解説を。

 ■1.歴史の改竄■

1989年6月に中国で起きた天安門事件(欧米では、「天安門の虐殺」では、自由と民主主義を求める学生・市民が軍隊に強襲され、北京で死者1万人、負傷者はその倍、北京以外では死者2万人、負傷者4万人の被害が出た、と国際アムネスティその他の人権擁護団体は推定してる。
しかし、自由を求めて立ち上がった学生達の犠牲的行為は、すでに欧米諸国や我が国からも忘れ去られ、遠い歴史の一こまとなりつつある。

一方、この事件を北京政府は人民日報で次のように報じている。

首都ならびに全国の全人民は、軍が人民の誰一人殺害したり、危害を及ぼしたりしなかったことを理解するであろう。反革命分子に抗戦するにあたって、軍は自衛行動を余儀なくされたが、発射したのは空砲だけであった。その間、将校、兵士、そして警官の4人が、これら非人間的な抗議参加者によって残忍にも殺害された。これら分子の残忍性は、一般人民の想像を絶するものである。

多くの犠牲者の写真や、外国人報道記者の虐殺証言にも関わらず、このような発表が平然と行われる所に、中国政府のよく言う「歴史の改竄」の典型を見ることができる。

 ■2.学生は「階級の敵」になりつつある■

1989年3月8日、北京の人民大会堂で中国共産党政治局の全体会議が開かれていた。席上、李鵬首相は、北京やその他の都市の多くの大学キャンパスで、学生達が現政権に対する抗議集会を開いている事実を指摘し、彼らは「西欧化に過剰に曝露」された結果、「腐敗」してしまっており、今や「階級の敵」になりつつあると指摘した。

 リベラル派の前党総主席・胡耀邦が割って入って、教育の普及によって、学生の中に「抑圧されてはならない」という自覚が生まれてきたことを認めようとしないことから、中国の諸問題は派生したものだと主張した。
そして胡耀邦は立ち上がって、「中国にとっての唯一の希望」について、何か言おうとした所、声が出ず、口をぽかんと開けたまま立ちつくした。そのあと、崩れるように床に倒れてしまった。胡耀邦は担架で運びだされ、会議は流会となった。

 ■3.人民は戦いを挑むことになろう■

文化大革命を生き抜いたトウ小平が、経済の近代化を目指して1982年に後継者として党総主席に指名したのが、胡耀邦であった。胡耀邦は共産党のイデオロギーに対する攻撃を始め、リベラルな改革を押し進めた。学生たちはその一語一語に陶酔し、民主主義の確立を求め始めた。

多くの党幹部の子息も学生達のデモに加わり、逮捕されて強制労働収容所に入れられた。党長老たちの圧力のもとに、トウ小平は周到な打算の結果、胡耀邦を失脚させた。胡耀邦はある人にこう語っている。

 トウ小平は、自ら仕掛けた罠にはまってしまった。経済の一部自由化を実施したことは、全面的な政治の自由化を求めていた人民の気持ちを誤解していたことを示す。
もし自ら欲するものが得られないとするなら、人民は戦いを挑むことになろう。学生だけでなく、すべての人民が。

人民公会堂で倒れてから、5週間後の4月15日、胡耀邦は二度目の発作を起こして息絶えた。その死を引き金にして、彼の予言した「人民の戦い」が始まった。

 ■4.中国に民主主義移行の権利あり■

同日、数千人の学生の隊列がシュプレヒコールを繰り返しながら、天安門広場に現れた。先導する学生は胡耀邦の写真を掲げて、従う学生達は、追悼の意を表すために、白い服をまとい、白い花束を手にしている。

人民英雄記念碑の前で、「中国に民主主義移行の権利あり」と大書した横断幕が掲げられ、学生リーダーが「胡耀邦万歳!民主主義万歳! 自由万歳! 汚職撲滅! 官僚機構廃止!」と叫んだ。

人民大会堂のサロンでは、党の政治局会議のメンバーが、怒りをあらわにして、学生達の動きを見ていた。楊尚昆国家主席が「やめさせなければならない、直ちに」と言ったが、趙紫陽党総主席は、学生達と共に歩んでいるテレビや新聞雑誌のカメラマンを指して、「全世界の注視の的になっている。我々を批判するよう学生達をし向けるようなことは、いっさいしないことにしよう。」と止めた。
 
その後、日が経つにつれて、天安門広場の群衆は増え続け、100万人にも達したが、警察の取り締まりは散発的であった。趙紫陽が、学生に干渉しないという態度をとり続けていたからだが、これは彼が党内での実権掌握を狙って、学生運動を利用しているからだ、とのうわさが絶えなかった。趙紫陽は、胡耀邦の後継者として、経済自由化を進めてきた人物だった。

 ■5.学生の戦い■

100万人以上もの群衆を、学生リーダー達はよく統率し、非合法的な動きを押さえて、当局に手出しをさせるきっかけを与えなかった。またその民主主義の要求も、憲法から引用した文章で裏付けされていた。

多くの大学当局では学生にデモを止めさせるために、父兄をバスで集め、説得させようとした。父兄から今後一切の仕送りをやめ、絶縁すると脅されたが、学生達は言うことを聞かなかった。

やがて、400人を超える学生が、当局が民主主義要求を聞き入れるまではと、死を賭してハンガーストライキに入った。学生リーダーの一人は次のように演説した。

死はわれわれの目的とするところではない。しかしながら、もし一人の死もしくは何人かの集団の死が、さらに大きな集団の生活改善とわが国の繁栄を助長するというのなら、死を回避する権利は我々にはないということになる。

目撃した外国人報道記者は、ハンストに参加した学生たちが相手を弊(たお)さずにはおかないという覚悟を決めていることに気づき、「神風特攻隊のパイロットはこのようであったに違いないと思わしむるものがあった。」と語っている。

 ■6.趙紫陽の失脚■

騒ぎが始まって、ちょうど1ヶ月後の5月15日、北京政府はソ連のゴルバチョフ書記長を迎えた。しかしこの騒動のおかげで、書記長一行は裏道を走り、人民大会堂にも普段は掃除夫が使う西門から入らねばならなかった。外では、「モスクワにはゴルバチョフと自由!、中国にはトウ小平と汚職!」などと書かれた垂れ幕が掲げられ、「ゴルバチョフ同志よ、われわれにペレストロイカを与えたまえ」という叫び声が会議場にまで届いた。北京政府の面目は丸つぶれとなった。

翌16日夜、トウ小平は趙紫陽を呼びつけて、1時間以上も、怒りをぶつけた。二人は50年以上も一緒にやってきたのだが、ついに決別の時が来た。しばらくにらみ合った後、トウ小平は目をそらし、横にいた李鵬の方を向いた。李鵬は満足感を隠そうともしなかった。

 5月19日早朝、趙紫陽はやつれた表情で、天安門広場でハンスト中の学生達を訪れ、「私が今回ここを訪れたのは、諸君の赦しを乞うためである」と述べた。その後、趙紫陽は黙って車で去っていった。こうして学生達が新しい政権を作ってくれるかもしれないと期待した人物は歴史の舞台から消えていった。

 ■7.もつれた雑草を刈り取るには鋭利なナイフを■

5月後半からは、学生や市民による騒乱が全国の約20都市で広まった。西安では30万人が抗議デモを行い、軍の車両や施設が放火された。湖西省では2千人の学生が駅を自主管理し、湖北省では揚子江の橋を占拠していた。

5月27日、趙紫陽に代わって、上海で学生運動に断固たる処置をとった上海党第一書記の江沢民が党総書記に任命された。6月2日、トウ小平は党幹部を邸宅に集めて、学生に対して断固たる処置をとるという決定を下した。トウは「もつれた雑草を刈り取るには鋭利なナイフを使わねばならない」と言っていたが、もしそうしても欧米諸国からの軍事的報復はなく、建前上の非難はあっても、外交面、貿易面の断絶は一時的なものになるだろう、という情報を各国駐在の中国大使から得ていたのである。

その時には推定10万人の人民解放軍が戦車、ロケット・ランチャー、重機関銃などの重装備をして北京を包囲していた。北京以外にも、上海、武漢、成都などの都市に5万人近い兵力が展開されていた。

 ■8.虐殺の夜■

6月3日(土)深夜、テレビのスクリーンに「戒厳令司令 部」という文字が現れ、「広範囲にわたる市民の要請により、軍は暴漢に対処するため、協力かつ効果的な措置を講じようとしている。市民は街頭に出ないように。」という声明が読まれた。

兵士達は、「反革命分子が疫病の蔓延を計画中」であるから、と何かの注射をされ、命令があれば射殺せよと、言われた。バスやトラックで作られたバリケードに一斉射撃が加えられ、人々が次々になぎ倒されていく。戦車がバリケードをつきやぶり、その後に装甲車やトラックの列が続いた。

兵士達が注射されたのは、麻薬であったようだ。彼らは見境なく銃撃し、銃弾にやられた人々が悲鳴をあげるのを耳にしては、笑っていた。

北京の事務員や工員たちは、学生達が危ないと、あわてて天安門広場に集まり、1時間後には百万人を超える群衆となった。しかし武器もなく、彼らに出来ることは、学生に危害を及ぼすなと、兵隊に向かって絶叫することだけだった。

 40、50人の市民が列を作って、軍隊に向かって前進すると、並んだ戦車の間から歩兵が一斉射撃をして、なぎ倒す。弾丸を装填して発射、また装填して発射、、、。

 ■9.中国人民を支持してください■

夜が明けて、天安門に通ずる東西約10キロ半の両長安街には、男性や婦女子の死体があちこちに横たわっていた。兵士達は夜のうちから、死体を積み重ね、ガソリンをかけて焼いていたが、外国特派員の目から隠すために、ヘリで死体を北京市西方の丘陵地帯に移送し、そこで火葬にした。

その悪臭は市内の上空にも漂い、英国大使館報道担当官ブライアン・デイビッドソンは、ナチスの収容所周辺の悪臭も、このように吐き気を催すものではなかったか、と語っている。

天安門で事件を目撃した若いアメリカ人教師バー・セイツは、その夜の光景を思い出す。彼は、歩きながら一人の中国人青年に声を話しかけた。青年は、手押し車で負傷者が連れ去られていくのを見ながら、両手で顔を覆い、それからバーに向かって訴えた。

あなたは、中国人民を支持してください。お国に帰っても、中国人民を支持してください。

 ■10.事件のあと■

民主化要求に立ち上がった学生達は、民主主義のチャンピョンを自認する米国がバックアップしてくれるのでは、と淡い期待を抱いていた。しかし、それはあまりにもナイーブな期待だった。米政府は人民解放軍の動きを偵察衛星を通じてリアルタイムに把握していたが、北京政府に自制を求めることもなく、学生達に迫り来る危機について警告することもしなかった。

 事件後、ブッシュ大統領は対中武器輸出と、米中軍関係者の接触を一時停止すると発表したが、「米中関係は米国にとって重要であり、私としては維持されることを望んでいる」と記者会見で述べた。米中間の貿易はその前年には、40%増の12億ドルに達し、対中投資も35億ドルにのぼっていたのである。激化する日本との経済競争を勝ち抜くには、米中貿易をテコにするしかない、という戦略の前には、学生達の民主化要求も、そして彼らの人権や生命すら無視されたのである。

事件後、世界銀行からの借款停止など、国際社会は中国に対する制裁措置をとったが、翌年の湾岸戦争に際して、米国は制裁解除に向けての後押しを中国に約束した。これは中国が国連安保理で拒否権を発動しないこと、イラクに売却した中国製ミサイルの配置情報を提供する事、という二点の見返りである。

湾岸戦争の一週間前、北京政府は逮捕された推定3千名にのぼる学生達の裁判に関して、米国側が公式な抗議をしないよう期待していると伝え、米国はこれに応えた。裁判の結果、民主化を要求して平和的なデモを実施しただけの学生達が、3年から13年の刑期で強制労働収容所送りとなった。

胡耀邦のもとでようやく芽生えた自由化・民主化への動きは、こうして「鋭利なナイフ」で完全に刈り込まれ、ソ連や東欧に比すべき共産党独裁からの解放はさらに遠のいてしまった。

 ということだ簡単に言ってしまえば
 民主化を求めてデモを起こした人民に対し人民解放軍が虐殺してしまったということ 
 になる。

 今でも共産主義を維持しようとする中国。靖国問題で日本がまた戦争を起こすとかほざいているが、戦争を起こしかねないのはまさにここ中国である。言論ですら弾圧してしまう。そしてまた人民解放軍が暴走している。ああ赤い国はいやだ。


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